Kijikko diary

上海在住。手芸と小沢健二を愛する、私のダイアリー。

お祭りが始まりますよ

★読んでも得にならない私的な文化史★



初めてオザケンを意識したのは、親が運転する車の中。


またオザケンか〜〜〜い!!


気をとりなおして・・・
初めてオザケンを意識したのは、親が運転する車の中。
FM802ヘビーローテーションで「愛し愛されて生きるのさ」が流れていた。
計算すると中1の頃だったようだ。



「はいはい、おしゃれ系の曲ね、ふーん」と上から目線で聴き始めたけど(こういうJCいるよね〜)
聞いていくうちに、あれ、この曲いいかも?いいよ!!!!!と大好きになってしまった。
初めて聞いたときの気持ちの変化まで、ものすごくリアルに覚えている。



それからファンになり、彼の曲、彼の書くものに夢中になった。



自分らしさって何だろうとか、将来どうしたいのだろうとか考え、
まわりの世界について自分なりに解釈しだしていた頃。
どうやらオザケンの語る言葉の中にその答えがあるようだと目当てをつけた私は、
雑誌のコラムから、歌詞から、ヒントを探した。
過去のCDを入手し、歌詞カードをめくり、ノートに書き写し。。



オザケンは私の教科書だった。
でもいきなり教科書は奪われ、自分の足で歩かざるを得なくなった。
それが19年前。さまざまな音楽や映画、本に出会いながら、手探りで歩いてきた。
オザケンは、人間活動をするために前線を離れたのかもしれない。
一方で自己中な解釈をすると「お前自分でちゃんと歩けよ!」と言うためだったのかな、という気もする。



とにかく私は社会人になり結婚して母になった。
細々とライターの仕事を続け、手芸が大好きな今の私は、
オザケンの残した言葉によって生成されていると勝手に思っている。



少し前からライブで復活し、1年や2年に1度、私たちの前に現れてくれるようになったオザケン
テレビに出るときにはお祭り騒ぎだ。うれしいのなんのって。
細い!メガネかけてる!かわいい服きてる!って盛り上がる、中身が全然19年前と変わらない私・・・。



これまでの祭りは、なんとなく「同窓会」感があった。
昔のオザケンを懐かしむ会。「ひふみよ」と「我ら、時」のライブでは完全に同窓会感バリバリで
最近のオザケンのことも少し分かり、ただただ会えることが嬉しかった。てか感動して泣いてたしな。
で、去年のライブ「魔法的」だ。新曲をたくさん引き連れて登場したオザケン
新曲は作ってもCDは出さないということで、ライブという場を1000%楽しめというメッセージなのかなと思った。



本当はそう思いたくない自分もいた。新曲を心待ちにして、CDを擦り切れるほど聞いて、
歌詞を深読みしまくり、友達と意見交換して、今夜テレビに出るから録画ね!って普通に応援したい!
でもそう言うのは野暮なことなんだと言い聞かせていた。



だけど3日前に彼が朝日新聞に文章を出して、一昨日、新しい曲をリリースして、
今日、Mステーションに出るということは、それまでのこととは全く意味が違う。
19年ぶりに今の日本にリアルに生きるオザケン。新しいことが起こる予兆?
ととても大きな期待をしてしまう。また肩透かしで終わらないといいなと思う。
同窓会ばかりは嫌で、今のオザケンがいる日常を生きたくて、ずっと待ってきた。
願いながら今日のMステを見ようと思う。



何十年も前線を離れている彼。彼が前線にいた刹那に残した、たった数枚のCDが
多くのアーティストにカバーされ今でもなお愛されつづけていること。
彼が消えても私たちにいろいろ教えてくれる。
良いものは時間がたっても錆びない。苦労して生み出したものだけが感動を与える。
JCもなかなか成長したで。



前にも何度かオザケンのことを書いたと思うけど、
1回テレビに出るというだけで、こんなにも(しつこく)熱く語りたくなるような、
そんなオザケンはやっぱり特別で唯一無二の存在だ。
本当はこんなに語るのは小っ恥ずかしいのだけど、オザケンが決心して送ってくれた
たくさんの言葉に何も返さないのは失礼な気がするので私もちゃんと書いておこう。



拝啓 小沢健二さまーーー。
あなたの詞に育てられたJCは、1歳の息子をほったらかしてブログに熱い文章を書く
JC(自己中)なおばちゃんになりました。本当にありがとう!今日のMステ楽しみすぎるよ!